それから二日、私は三人と不思議な共同生活をして過ごした。意外にも、私を逃がすという方向性に決まってから、雰囲気が柔らかくなったのは気のせいだろうか。三人も、それぞれのやり方で私を気にかけて、例の取引の日まで良くしてくれていた。
「体調、大丈夫?」
いよいよ、港へ出発するという日の夕方。ヒロさんは一人、部屋に来てはいつも通り体調を心配してくれた。ヒロさんと、呼ぶことはできないし、会話もできないけれど、心が通っている、そんな空気感を感じていたのはきっと、ヒロさんも同じ。私に惚れていると、嘘でも言ってくれたあの時、本当に嬉しかった。それに、もしかしたら嘘ではなかったのかもしれない。二人きりになればハグをして、時々こっそりと、何から隠れるように触れるだけのキスをして。その行為に説明はなかったけれど、それでも十分だった。
「きっと、上手くいくから。名前ちゃんの声も、きっと戻るから」
私はヒロさんの腕の中で、何度も頷いた。
「元気でな」
ヒロさんはそう言いながら、私の後頭部に回していた手を顎に添えて、上を向かされる。そのまま、そっと引き寄せられるように互いに唇を重ねた。それはいつもより長く、深く、気づけば絡み合うような口づけになっていく。柔らかな唇同士が触れ合う心地よさと、温かさに、涙が溢れるのも構わず、私は縋りつくようにヒロさんを求めた。もっと、そばにいたかった。もっと、違う形で会えていたら。そう、思ってしまったらもう止まらない。何よりヒロさんも、愛おし気に、そして激しく、その胸の内をぶつけるように迫ってくるから、このまま二人で溺れてしまいたいと願ってしまった。
「ん……だめだ」
額同士を触れ合わせながら、ヒロさんは切なげにそう言う。
「名前ちゃん、元気でな。ちゃんと食べて、ちゃんと寝て、たくさん笑って……ね?」
私はまだ乱れる呼吸を整えながら、笑って頷いた。そして“ヒロも”、と口だけで伝える。
「うん、そうする」
最後にもう一回だけ、キスをして私たちは部屋を出た。
*****
港の倉庫が立ち並ぶ此処は、照明もなく暗い。その闇に溶け込むように、黒色の車の中で私はバーボンと二人きりだった。バーボンは運転席に、私は隠れるように後部座席に寝転んだまま。
「寒くはないですか?」
バーボンは、皆といる時はあえて私と距離を取っているようだった。というより私よりも、常にスコッチを気にしている印象が大きい。
「もうしばらく、かかりそうですので」
運転席に座っている彼は片耳に装着したインカムに手を添えると、バックミラー越しに私に視線を向けた。ヒロさんとライは、大きな荷物を持って外へ出て行ったきりだ。きっとあれが最後の姿だったのだと思う。ヒロさんは、皆がいる前だったからか、私の頬をそっとひと撫でして背を向けて行ってしまった。ライは、いつも通りだった。
「貴女は、無事に日本に帰れますよ」
今日のバーボンは饒舌だった。元々お話する人だとは思っていたけれど、私に話しかけることは少なかったのに。
「声も、きっと戻る」
そういえば、ヒロさんもそう言って励ましてくれていた。
「実を言うと、僕の親友が昔、失声症だったんです」
バックミラーを覗いても、バーボンは私の方を見ていないため、視線は交わらない。私はただ、耳を傾けていた。
「でも、それも克服して、今は誰よりも強く、優しさを持って、人を守っているんです。……だから、貴女も」
今度は、バーボンの綺麗なブルーの瞳が、きらりと輝くように鏡に映った。私がそれに対して頷くと、それきりバーボンは口を閉じた。
私は膝を折って、仰向けで寝そべったまま、天井を見上げる。家族の元へ帰れると思うと、今にも涙してしまいそうだ。それでも少しだけ、三人との生活を思い返してしまうのは、彼らの心の奥にある温かさに触れたからなのかもしれない。ヒロさんとの時間も、忘れたくないものになっていた。
「そろそろです、用意しましょうか」
バーボンは、車内から周囲を見渡しながら、私に起き上がるよう指示を出した。そして言われるがまま、背中を向けて両手を差し出す。太い布でぐるぐると、手首が巻きつけられていく。最後にぎゅっと締め付けられたときには、思わず肩に力が入った。
「すみません、疑われても困るので」
彼はそう言うけれど、少しだけ布の間に指を差し入れると、その締め付け具合を調整してくれた。
「不安かもしれませんが、警察に聞かれると厄介なので目隠しもします。しばらくその状態になりますけど、いいですね」
もちろんこれは聞かされていたことだけど、バーボンは再度、言い聞かせるように言って、私の視界を覆うように目を布で覆っていった。そうして車はゆっくりと動き出す。
もう、私には何も見えない。でも、数日前まで味わっていた絶望に比べたら、今はいくらでもこうしていられそうだった。後は、三人を信じて一人、警察が来るまで待つだけだ。
*****
あれから、あっという間に時間は過ぎていった。私はもう学生ではなく、社会人だ。声も無事に取り戻し、なんとか元の生活に戻ることができていた。それもきっと、あの数日間があったから。彼らに救われたから、前を向けているのだと思う。
あの時、無事に警察に保護された私は、FBIの方たちに引き渡された。そこでライが潜入中のFBI捜査官だったと、種明かしをされたけれど驚きはなかった。ただそれによって、もしかしたらバーボンも、ヒロさんも、ライに近しい立場なのかもしれないと、そんなことを思った。その答えは決して分からないのだから、私は勝手にそう思うことにして、あの時間を心の奥にしまったんだ。
買い物の帰り道、ふと空を見上げると夕焼けに染まる綺麗なピンク色をしていた。よく、こういう空を見上げて思うのは“元気でな”、と優しい笑顔で言ってくれたヒロさんのこと。ヒロさんは、私にとって初めて愛を教えてくれた人なんだと思う。そうして彼を思い出す度に、私は元気だよと、空に伝えている。いつか直接、会って伝えることができたら、どんなに嬉しいだろう。
そうして大通りに面した歩道を歩いていると、右側から白い車がハザードランプを点けて、ゆっくりと減速し、遠く離れた先で停車した。
「え……」
でもその瞬間、呼吸が止まったかのように私は固まる。ちょうど視線の先、青いジャケットを羽織った男性が、その車へと近づいていった。
横顔しか分からないけれど、それは確かにヒロさんのようだった。今すぐ、叫びたい。ヒロさんと呼びたい。なのに気が動転してしまっているのか、視界ばかりが揺れてしまって、上手くいかない。
「っま、……まって」
吐息のような声でしかないのに、思いが通じたのか、ヒロさんがこちらを振り向く。
「……っ!」
彼は、口を開けて、まるで幽霊でも見ているかのように、瞬きを繰り返していた。
「ひ……っヒロ!」
きっと、全然届いていないこの声。でも、ヒロさんには伝わっているような気がした。
彼はあの時と変わらず、優しげな笑顔で私を見つめてくれていたから。
ーfin.ー